タイムスリップよこはま 〜TIME SLIP YOKOHAMA〜
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ララ物資
ララ物資
昭和40年代後半の給食風景
昭和40年代後半の給食風景
 
ララ物資記念石碑
横浜港(新港埠頭)には記念碑

(※写真をクリックすると拡大表示されます)
 
歴史
 第二次世界大戦後の日本は、衣・食・住の全てが不足しており、人々は極限状態での生活を強いられていた。バラックを作って雨露をしのぎ、もはや衣服とは呼べないような布をまとい、僅かばかりの配給で空腹を紛らわせながらの毎日だった。その配給でさえも満足に行き渡らず、遅配が何日も続き、事態は深刻化する一方であった。幼い子供達は育ち盛りなのにも関わらず、ほとんどが欠食児童で、栄養失調はざらで、その体躯は痛々しいほどに貧弱化していった。学校はとうにその機能を失っていて教育どころではなかった。横浜市民も例外ではなく、辛く苦しい日々を送っていたのである。そして、それを救ったのがララ物資だった。「ララ」とは、License Agency for Relief in Asia(「アジア救済連 盟」)の頭文字である。
  1946年(昭和21年)11月、横浜港に待望の輸送第一船(ハワード・スタンズベリー号)が到着した。積荷の内容はミルク、米の粉、バター、ジャム、缶詰、などの食料や衣類だった(食料7割、衣類2割、他医薬品等の割合である)。これによって戦後の学校給食が開始されたのである。この莫大なる援助の陰には一人の在米日本人が大きく関わっている。その人物の名は浅野七之助である。サンフランシスコに住んでいた浅野は、祖国の危機を知ると日系人を中心に、日本に対しての救済運動を展開した。それはやがて大きな波となって全米に広がり、遂にララ物資という形で実現したのである。その後、1954年(昭和29年)に学校給食法が施行され、給食は教育活動として位置付けられた。更に1958年(昭和33年)には小学校学習指導要領の改訂により、教育課程の一環ともなった。
  モノクロの写真は昭和40年代後半の学校給食風景をとらえたものである。また、右側の写真はララ物資が最初に上陸した横浜の新港パークに作られた記念碑で、この絶大なる支援に対する感謝の意を表し、戦後の日本における時代背景をつぶさに語っているかのようである。
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