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横浜が開港するきっかけとなったのは日米修好通商条約だったが、実は開港地は神奈川の予定だった。 しかし、東海道沿いに位置する神奈川を開港すると、外国人との間にトラブルの発生する恐れがあった為、横浜に変更され、そして1859年(安政6年)、開港に至ったわけである。
横浜は水深があり、大型の外国船が入港するには申し分無かったが、一帯は開発のし易い新田地帯であり、後に市街地として急速な発展を遂げる要素が満たされていた為、開港されると、アメリカと同様の条約を締結したオランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国と交流も始まり、横浜は貿易港としての町独特の様相を呈していった。また、1868年(慶応4年)までの9年間にポルトガル、プロシァ、ベルギー、スイス、イタリア、デンマークといった国々と通商条約を結んで横浜はより異国人と交流を深めることとなった。横浜が開港した後にまず初めに現在の山下町に位置するところに山下居留地が4年ほどで完成し、その後に横浜居留地、山手居留地などが幕府により造成されていった。その地域には徐々に「地番」が付けられていった。
それからは内外を問わず、色々な目的を持った人々が訪れるようになり、大変に賑わったが、開港されたとはいえ当時の横浜には交渉事に使用するに相応しい場所など無く、現在の開港資料館にあたる水神の森の脇に応接所を急遽建て、数々の交渉の場となっていった。開港資料館内中庭には、関東大震災の時に、根本まで焼けたが、見事な再生を遂げた、横浜の歴史の生き証人とも言うべき玉楠の木が今も立っている。これが現在、日本でも有数の貿易港に成長した横浜の開港当時の姿である。 |
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