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三渓園記念館の近くに建っている原三渓翁之碑のイメージ画像 |
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三渓園で有名な原富太郎(三渓)は、1868年に岐阜県にある厚見郡佐波村で生まれた。24歳の時に原家に養子として貰われ生糸商人として成功した。1899年に富太郎の父善三郎が亡くなり富太郎が家業を継ぐこととなり、後の1901年には、第二銀行の頭取や、横浜興業銀行の頭取、帝国蚕糸会社社長などを勤めていった。原三渓と言ったら三渓園を思い浮かべる人もいるだろう。この三渓園の名前の由来は、当時の三渓園の場所は三つの渓谷がありそこに庭園を設けたことからきている。三渓園の内苑にある歴史的建造物は、鎌倉や、京都から三渓が購入してここに移築したものである。三渓園に建っている鶴翔閣は、三渓の居宅地でもあり、下村観山・横山大観・前田青邨などの画家も来たという。また、三渓園は1906年から民間人に無料で一般公開を始めた為、瞬く間に三渓園と言う名が広まっていった。原三渓は1939年に病で倒れ一生涯を終えた。また、その20年後に三渓園の地へ原三渓翁之碑を建てた。
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