タイムスリップよこはま 〜TIME SLIP YOKOHAMA〜
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本牧岬
昭和28年頃の本牧岬
神奈川新聞社発行「激流」より

(※写真をクリックすると拡大表示されます)
歴史
 その昔、本牧から根岸にかけては半農半漁の小さな村であり、人々は漁業や海苔の養殖を行い、その豊かな自然からの恵みを受けて静かに暮らしていた。本牧には岬があり、当時は本牧岬と言えば現在の本郷町あたりを指し、本牧の鼻と呼ばれていた。ここには本牧十二天という、後の本牧神社があって崇められていた。写真の通り、切り立った岸壁と美しい遠浅の海岸が広がる景色の良い場所である。

  1854年(嘉永7年)1月にペリー率いる黒船が到来した時は騒然となり、一帯は兵で埋まったと言う。ペリー艦隊は来航の際に付近の海底を計測し、岬の岩肌に目印の文字を記した。
そして横浜は1859年(安政6年)に開港される訳だが、本牧岬は直接的な影響を受けず、特に変動はなかった。横浜市に編入されて地名が本牧町となっても、その環境は保たれていたのである。横浜に寄港する船は、この本牧岬が見えると航海の無事を確信したと言われている。
当時の景観はアメリカのミシシッピ湾に似ていた事からミシシッピ・ベイと呼ばれ、居留外国人達のリゾート地だった。外国人達は日本人と違い、景色を落ち着いて眺めるような事はせず、海水浴を盛んに行ったり遊歩道を散歩して、積極的に自然の中へ入り込んでいくといった楽しみ方を好んだ。海辺には「チャブ屋」と呼ばれる、今で言う「海の家」が多く立ち並び、人々は食事や休憩を取っていたのである。

  時は巡り、昭和40年代に入ると開発の波が押し寄せ、埋め立てが急速に進んで工業施設が出現した。海岸は元の場所から遥か沖合いに移動し、更には高速道路やJR根岸線の運行などによって昔の面影は過去のものになってしまったが、現在の本牧市民公園付近は当時の断崖だった場所を背負うような形になっており、その痕跡をわずかに留めている。
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