タイムスリップよこはま 〜TIME SLIP YOKOHAMA〜
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牛鍋屋
牛鍋屋
牛鍋屋
「太田なわのれん」外観


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歴史
 時は遡り奈良時代の日本では、肉を食べるという習慣がなかった。
江戸時代に入ってからは、1687年(貞享4年)に徳川5代将軍綱吉の出した「生類憐れみの令」による殺生肉食禁断戒律の厳重な励行により、一般庶民の間に、「生き物を殺して食べるとその地域社会に不幸をもらす」という迷信が広がった。 時代は幕末に移っても人々は、一部では「牛を食べると角が生える」とまで伝えられていた。 やがて明治の時代を迎え、長く続いた封建社会から解放され、新時代の発展に伴って国民知識が向上していくと、それまでの習慣に根強く横たわっていた迷信や古いしきたりも徐々に消滅していった。 食習慣での著しい変化は、当然のことながら肉食の自由化であった。 仏教の殺生戒の影響による肉食禁忌は、一種の迷信化して長く日本人の食生活を縛っていたが、1868年(明治元年)の神仏分離令の公布により肉食が解禁されると、開国とともにわが国に「肉食」という欧米文化に欠かせないものがもたらされ、今度は進んで肉食を行うこととなった。明治天皇がこのようにして新政府の肉食奨励の方針に沿って1200年に渡る肉食の禁を破り肉膳につかれたのは1872年(明治5年)の正月のことであったと言われている。 天皇の名の下に僧侶の肉食、妻帯、蓄髪が公認されると、国民も肉食に対する偏見を改めるようになってきた。 その当時、肉食の普及に大きく貢献したのは、福沢諭吉や仮名垣魯文などの知識人による肉食の啓蒙である。
福沢によると、「日本人にとって、肉は薬であり、それを用いずに虚弱であるのはすなわち一国の損亡であり、一軒の家で病人が多いのはわが家系だとして薬を用いないのが賢明だといえるか」、と説いている。

 まず最初に牛肉を食べ始めたのは横浜などの居留地の外国人や、駈屯していた兵士たちであった。 当初、外国人たちは、付近の農家から牛を購入しようと試みたが、農民たちは、食用にされることを知って牛を売ることを拒んだためあきらめざるを得なかった。そのため中国や朝鮮、あるいはアメリカから仕入れ、居留民に売ったりしていたけれども、外人の渡来が多くなるにつれ牛肉の需要が増えてくると、それだけではとても間に合わなくなって来た。やがて、近畿地方や、中国地方が和牛の産地であり生産量も多いことを知ると、これらの土地の家畜商に依頼して、神戸から横浜へ輸送させ供給を満たした。 1862年(文久2年)、横浜で居酒屋を営んでいた「伊勢熊」が始めて牛鍋屋を開業した。しかし、牛鍋屋を開くにあたり女房と相談すると、「あんなものを商売にするなら離婚してくれ」と言われ、やむなく店を二つに仕切り、一方では女房が居酒屋を続け、もう一方を牛鍋屋にすることにした。始めは牛鍋屋には客が来なかったが、よい匂いがするので居酒屋の客が次第にその匂いに引かれて集まり、ついには女房も折れて、中仕切りを取り払い、仲良く牛鍋屋の家業に専念したと伝えられている。 そうして、やがては「牛肉を食べない者は文明人ではない」と言われる世の中になっていった。1868年(明治元年)創業の串焼き屋「太田なわのれん」。初代高橋音吉の牛肉の串焼きが安くて美味しいと評判になり、現在の末吉町に店を新築した。ここで牛鍋を作るきっかけとなったのは外人用の食用肉の切り落しを入手したのが始まりであると言われる。 当時食べられていた牡丹鍋にヒントを得て、その肉のぶつ切りを味噌で煮、その味噌の風味と葱で肉の臭みを消した。
炭火の七輪にかけた浅い鉄鍋の火回しで独特の仕上がりを考え出し、牛鍋の看板をあげた。
これがほぼ今日の牛鍋の形である。今日に残るいわゆる「牛鍋」のかたちとして看板を掲げて創業した日本最初の牛鍋屋は、この「太田なわのれん」であるが、前述のとおり、牛鍋屋としての最初の創業は関内の入船町にあった「伊勢熊」であるといわれている。

  「太田なわのれん」の店の前には縄の暖簾がかけられ、それには「うしなべ」と書かれていた。そこからいつしか「太田なわのれん」と呼ばれるようになった。
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