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横浜の下水道については、都市計画で数々の功績を残したR.H.ブラントンの活躍を見る事になる。ブラントンの下水道計画は、まず横浜の旧外国人居留地から始まった。内容は道路の中央地下2.5フィート以下のところに下水管を埋没し、7ヶ所から下水を海に放流するというものだった。設計は1869年(明治2年)、完工は1871年(明治4年)の事である。排水管は陶製日本人の手により作られた。早速、これを地中に埋め、土をかぶせて地ならしをしたのだが、陶管に圧力がかかり、土管の多くが破損してしまったため、一旦これを除去しなければならなかった。これを教訓として、その後、土管の製造には工夫が加えられ、より耐久性のあるものが完成し、この問題は解決した。そして10年が経過し、ブラントンの陶管下水道は容量不足となったため、三田善太郎の計画により、下水管は全面的に煉瓦造へと形を変えていったのである。設計は1880年(明治13年)で、工事は一期・二期に分けて進められ、1887年度にその完成を見た。この時の下水管は断面が卵を逆さにしたような形状をしていたので、卵形管と呼ばれた。明治中期からは鉄筋コンクリート製の下水管が導入され、煉瓦造のものは次々ととって変えられていった。尚、鉄筋コンクリート製の下水菅が初めて採用されたのは、新港埠頭において行われた下水道工事であった。煉瓦造の卵形管は後年の道路工事などにより、横浜のいたるところで発見されており、市内に多く展示され、その歴史を語っている。 |
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