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記念碑中央にはエリオット博士(左)とパーキンス博士(右)のレリーフが刻まれている |
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(※写真をクリックすると拡大表示されます)
山下公園前通り[県民ホール]と[ザ・ホテル・ヨコハマ]間道路の2つ目路交差角に[セント・ジヨージ・エリオット博士とハラック・マーソン・パーキンス博士の西洋歯科医学勉強の地]碑がある。
アメリカ人歯科医師セント・ジョージ・エリオット博士は、1870年(明治3年)から1874年(明治7年)まで横浜居留地57番で歯科診療所を開設し門下生を指導した。
1874年(明治7年)のエリオットの出国後は同国歯科医師ハラック・マーソン・パーキンス博士が診療所を引き継ぎ、1881年(明治14年)の帰米まで開業しました。両医師の門人がここで近代歯科医学を学び、伝えたことが今日の歯科医学発展の基礎を成したとして、1995年(平成7年)に神奈川県歯科医師会が建立したのがこの碑である。
エリオットが開業していた当時、木戸孝允、新島襄、西郷従道ら、ときの名士もここで治療を受けた。
【碑文(写真左)】
セント・ジョージ・エリオット
エリオットはアメリカ南北戦争終了期に陸軍医務官として従軍した。終戦後、フィラデルフィア歯科医学校を卒業して1870年に、この57番館で開業し、1874年まで5年間診療に従事した。
その後、上海、シンガポールを経て英国ロンドンの歯科学校で手術学を5年間講義した。
のちに故郷に帰り、ニュージャージー州サウスオレンジ市第商4年ごろ逝去。
ハラック・マーソン・パーキンス
パーキンスは米国ペンシルベニア州に生まれ、ボストン歯科学校を卒業した。37歳頃、横浜のこの地にエリオットの後を受けて開業し、多くの門人を指導。1881年秋帰国する。
松岡萬蔵
1870年より1881年まで理夫とパーキンス両歯科診療所に歯科技工士として勤務し、その技術優秀にして両先生に信頼されていたが、早逝している。我が国における歯科技工士として嚆矢である。【碑文(写真右)】
− 西洋歯科医学勉学の地 −
エリオット博士は、居留地57番のこの地に歯科診療所を1870年より同七年まで開設し、外国人の歯科診療に従事するかたわら、木戸孝允、新島襄、西郷従道を治療し小幡英之助、佐治職を門下生とし指導されました。
同博士の帰国にあたり同診療所を引き継いだパーキンス博士は1881年秋、帰国まで診療のかたわら西村輔三、関川重吾、太田吉三郎、渡辺晋三、山田利充、林譲治、黒田虎太郎らに西洋歯科医学の指導をされました。
これら両博士の門人が多数の本邦人に西洋医科歯学を伝承し、今日の近代歯科医学の基礎をつくられた功績は真に大であります。本会創立七十周年に当り、ここに、「西洋歯科医学勉学の地」記念碑を建立して、両博士の功績を讃える次第です。
1995年5月吉日 神奈川県歯科医師会 |
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