横浜公園敷地内にある
神奈川新聞社提供
現在の横浜公園
交通手段:JR京浜東北線・根岸線 関内駅南口より徒歩3分。
(※写真をクリックすると拡大表示されます)
横浜公園の造営は1876年(明治9年)にイギリスの土木技師、R・H・ブラントンが設計図を作成したのが始まりである。ブラントンの設計は、新たな埋立地の造成と下水道を計画し、掘りを拡げ、護岸を補強するもので、日本大通りが建設予定地となったが、各国の領事との話し合いもまとまりかけた6月頃に、アメリカ公使から苦情が出た。そこでブラントンは、公園の半分を占めるクリケット用芝生地を中央に移し、アメリカ側もこれには賛成、ようやく公園を建設することになった。 横浜公園は、外国人と日本人の共同公園とされ「彼我公園」(ひがこうえん)とも呼ばれた。しかし、当時は外国人の利用の方が多かった。
また、横浜公園は最初に西洋花火や、国際親善野球の試合などが行われた公園でもある。そして1934年(昭和9年)には、ルー・ゲーリックらを筆頭とする米大リーグのオールスターが来日、全日本チームと対戦した。これに因み、後年駐留軍に接収された時「ゲーリック球場」という名称になる。写真は1950年(昭和25年)のゲーリック球場であるが、1945年(昭和20年)に完成した、日本初の照明灯を備えているのがわかる。また、コカ・コーラとペプシ・コーラの看板が1枚の写真に写っているのも興味深い。選手達のユニフォームも現在のようにスマートではなく時代を感じさせる。更に、野球場の先にはキング・クイーン・ジャックの塔も見える。その後は名称を「横浜公園平和野球場」と変え、老朽化を期に横浜スタジアム誕生へと至る訳である。現在の横浜公園は、観光スポットとしても名高く、市民の憩いの場にもなっている。また、横浜公園は、1870年(明治3年)に開設された山手公園に次いで2番目に古い公園でもある。
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