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開港後、居留地の外国人達からの日本人に対する立ち小便への苦情対策として、1871年(明治4年)に町の83箇所に板で囲った簡単なものを設けたのが始まりとされている。その後、人口も次第に増え、市街地も拡張され文化都市としてこのような便所では外見もわるく、道に出ることもあって改善の方法が考えられた。そのとき、横浜の浅野総一郎が便所の改造に取り掛った。そして1879年(明治12年)に63箇所完成した。 また、呼び名も最初は公同便所と呼ばれていたが、1895年(明治28年)ごろから共同便所と変わり、その後、「公衆便所」となった。 |
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