タイムスリップよこはま 〜TIME SLIP YOKOHAMA〜
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氷川丸
現在の氷川丸
 

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歴史
 山下公園を訪れると、桟橋に係留されている1隻の船が目をひく。海運会社、日本郵船が所有していた「氷川丸」である。明治期、鎖国が解かれて間もない日本では海運業が立ち遅れていた。それでも何とかシアトル航路が設立され、そこに投入された3隻の中にこの船があった。シアトル航路は天候が荒い事で有名だったため、氷川丸は非常に頑丈な造りとなっている。当時、優秀船と呼ばれた船舶には神社の名前がつけられ、氷川丸は埼玉県大宮市の氷川神社からその名をもらったのだ。30年の長期に渡り、約2万5,000人の乗客を乗せて太平洋を254回も横断した名船はこうして誕生した。時に1930年(昭和5年)、日米間に暗い影が落ち始めた頃である。だが、そんな事をよそに氷川丸の人気は高く、ことに旅の楽しみである料理には定評があった。世紀の喜劇王、チャップリンが乗船する事になると、彼の好物だった天ぷらをわざわざコックに勉強させたという逸話もある。また、イギリス国王ジョージ7世の戴冠式に出席する秩父宮ご夫妻が乗船された事もあり、話題をさらった。やがて戦争が始まると、氷川丸は白く塗られた船体の真中と煙突に赤十字を付け、病院船の任に就いた。激化する戦火の中、他の大型商船が戦禍を被り次々と海へ沈んでいくなか氷川丸は3度の触雷を経験しているが、これらの危機を全て切り抜け、当時の外航商船では唯一とも言える生き残りとなった。1945年(昭和20年)8月15日、日本の無条件降伏により戦争は終結した。同時に氷川丸は満州方面からの引揚邦人輸送のため運航し、復員船の役目を果たした。その後、1952年(昭和27年)には定期貨客船としてカムバックし、翌年シアトル航路に復帰する頃には老朽化が否めなかったが、その人気は相変わらずだった。そして1960年(昭和35年)8月27日に横浜港を出て10月3日に神戸に入港、「北太平洋の女王」は最後の航海を終えたのである。日本郵船は船を解体する意向だったが、神奈川県や横浜市が市民と一体になって氷川丸を誘致し、保存する事となった。1967年(昭和42年)にはマリンタワーと合併、2003年(平成15年)11月には歴史的価値が認められて横浜市指定有形文化財となり、今日もその優美な姿を訪れる人々に見せてくれている。
 
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