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日米和親条約が結ばれたのは、現在、横浜開港資料館が建っているすぐそばの、「開港広場」と呼ばれている場所であり、1854年(安政元年)の事であった。この時は条約を締結したに留まり、開港するまでには至らなかった。アメリカ側、つまりペリーとしては日本との貿易の自由化を求めていた訳であったが、日本側の強い拒絶に遭ったため、この時は通商を断念せざるを得なかったのである。ペリーが描いていた日本とアメリカの関係を実現するのは、1858年(安政5年)の日米修好通商条約が締結され、横浜が開港されるまで待たなくてはならなかった。また、幕府は交渉場所として鎌倉や久里浜を上げていたがペリーが拒否したため日米交渉は安易に進まなかった。ペリーが交渉場所として望んでいた条件とは、1つ目は、「江戸(現在の東京)から近いこと」2つ目は、「沖合に艦隊を整列させてペリー艦隊の軍事力を日本側へ強調できること」3つ目は、「交渉場所に艦隊から砲弾が届くこと」4つ目として、「汽車の模型や伝信機などを展覧する広い場所があること」の4つの条件であり横浜村はその条件に適していたため横浜と言う地が日本の歴史に永く名前を残すことになった。そのため江戸幕府は、現在の横浜開港資料館に応接所を設け約1ヵ月間の協議を経て全12条からなる日米和親条約を締結した。現在、開港広場には地球儀の形をした、日米和親条約調印の石碑がたたずんでいる。 |
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