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ゲーテ座は、わが国初の本格的演劇場である。
最初は居留外国人達の案をもとに、フランスの建築家である
ポール・サルダの設計に基づき、
1870年(明治3年)に横浜居留地の68番地に建てられたもので、
その後、パブリックホールとして使用され、数々の催し物のために利用されたのである。
だが、人々の「より広いパブリックホールの建築を」との運動が起こり、
1885年(明治18年)4月18日に現在の場所である港の見える丘公園近くに
装いも新たなホールが建設されたのだ。
因みに当時の収容人員は350人だった。
この建物がゲーテ座と呼ばれるようになったのは、
1908年(明治41年)12月以降の事であり、演劇・音楽会・講演会など、多種多様な目的に利用されたのである。
当時の観客は、やはり外国人が主体であり、日本人は少なかった。
しかし、その少ない日本人観客の中には著名人が多く、滝廉太郎や坪内逍遥、北村透谷に芥川龍之介、
そして横浜ではお馴染みの大仏次郎など、後の日本文化に大きな影響を与える人物が
ここゲーテ座に通い詰めたのである。
その後に起きた1923年(大正12年)の関東大震災によって、
一旦は建物が崩壊してしまったが、1980年(昭和55年)、岩崎学園によって復元され、
衣服やアクセサリーなどの服飾関係の展示品、
ゲーテ座にまつわる資料が収められている。尚、ゲーテ座の「ゲーテ」の語源は、
詩人のゲーテではなく、英語の「陽気・愉快・快活」という言葉がその命名の由来となっている。
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